2013.03.08

←INDEX ※カテゴリーの項目をクリックしてお入り下さい

Noto_4
【トピックス】
◆松江で島根半島の灯台写真展◆切手の中の灯台◆灯台記念日に灯台研究会表彰◆音戸灯台は灯塔撤去し仮設のあかり◆写真家緑川洋一さんのこと◆癒やしの風景 岬・半島・灯台◆映画「潮騒」にみる灯台長の描かれ方◆海上保安大耐寒訓練 小麗女島灯台~太郎坊◆デパートで訪ねる灯台
【歴史】
◆瀬戸内海運近代化の幕開けと釣島灯台◆瀬戸内海 明治27年灯台(日清戦争前夜に)◆近代化遺産としての釣島灯台◆新聞記事にみる米・中核実験による灯台職員飲料水汚染(年表)◆江田島屋形石燈標の戦災被害状況記録
【灯光はるか】
◆灯光はるか 灯台長一家の原爆 <1>―<10>
【灯台のある風景】
◆①男木島②大久野島③鍋島④佐田岬⑤大浜埼⑥高根島⑦室津⑧宇品
【紀行】
◆高山岬◆周防野島灯台◆豊後水道・鶴御埼◆豊後水道 海事資料館&渡り鳥館◆石狩&日和山灯台◆原発抜けて立石埼灯台◆はるか潮岬◆室蘭・母恋・地球岬灯台◆「喜びも悲しみも幾歳月」灯台マップ◆「さかい」の港にある 二つの明治木造洋式燈台◆瀬戸内海・明治の灯台を巡る◆四国民家博物館(四国村)と加藤達雄さん◆紀伊日ノ御埼灯台の句碑◆志賀直哉の見た百貫島の灯
【記念灯台を行く】
◆玉島灯台◆明治村の旧小那沙美島灯台◆新居浜港・赤白灯台◆旧福浦灯台
【記録】
◆大久野島灯台に関する聞き書き◆灯台の雨水利用システム◆灯台 海の灯絶やさぬ 守りの人の誇り◆遙邨の描いた灯台
【資料】
◆灯台史の空白に光り 戦中戦後の灯台記録写真見つかる 長野で◆伊藤武夫写真資料の持つ意味◆伊藤武夫灯台資料について◆伊藤武夫灯台資料を燈光会に寄贈
INDEX ※カテゴリーの項目をクリックして下さい

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013.03.06

瀬戸内海運の夜明けと釣島灯台

Photo_3

 松山港からの定期船が釣島に近づくと島の高台中腹に白い灯台と洋館の吏員退息所が見えてくる。堤防のある道からミカン畑の中の坂を登る。振り返ると釣島水道を行き交う大型船がゆっくりと横切る。
明治6(1873)年に建てられた釣島灯台は石造の洋式灯台である。現在、毎日430隻以上の船舶が行き来する。日没後、16秒毎に赤白互いの一閃光を放つ。光の届く距離は約38㌔。140年間にわたり伊予、安芸灘から釣島水道を示す灯標として、通行する船舶を導いている。
 西に向かえば伊予灘から周防灘へ、水道を東に抜けると安芸灘である。幕末から明治にかけ長い鎖国が解けると長崎、兵庫開港により、瀬戸内海の東西の往来は海上交通の要衝となった。
 鎖国から開国へ。明治新政府は近代国家への急速な歩みを進める。明治2(1869)年には西洋型船舶を奨励し所有を許可する太政官布告を発し、瀬戸内海にも1000t超級の蒸気船による貨客輸送が始まっている。鉄道、道路は未整備で物資、人員の大量輸送は大型船に頼った。

ブラントン適地選ぶ 
 欧米各国の蒸気船の安全航行にとって、暗礁の多い複雑な内海航路のしるべとなる灯台建設は火急の用だった。
 なぜ松山沖の小島が選ばれたのか。
そもそも江戸幕府が開国にともない欧米列強に西洋式の灯台の設置を求められたことから始まる。長い鎖国の時代を経て米国のペリー艦隊の来航を機に米英などとの和親条約、さらには通商条約が結ばれる。
 開国を迫られ開港した横浜、長崎、箱館などに外国の貿易船が頻繁に訪れることになる。攘夷論は高まり長州藩が下関海峡を航行する米、仏、蘭の商船、軍艦を砲撃する下関事件が起きた。しかし逆に列強艦隊の総攻撃を受けて敗北。幕府は、英米仏蘭と改税約定(江戸条約)をのまされる。
 貿易船のスムーズな航行に日本近海の「ダーク・シー(暗い海)」に観音崎など8カ所の灯台建設を賠償金で建設することになった。約定は明治新政府にそのまま引き継がれる。
 新政府は兵庫の開港に向け、周辺の友ガ島(和歌山県)、江崎(淡路島)、和田岬(兵庫県)と部崎(福岡県)、六連島(山口県)の五基の建設も約束。さらに1868(明治元)年に来日した英国のお雇い外国人R・H・ブラントンの調査測量により釣島と鍋島(香川県)、天保山(大阪)の3基が加わった。
 上海を経由した船が長崎、下関海峡を経由し、兵庫、大阪に至る瀬戸内海の安全航行を確保することが急務だった。航路には多くの島が点在し潮流の速い瀬戸、暗礁のある海峡など難所が数多ある。日本の小型廻船に比べ列強の大型蒸気船にとって海の道しるべはなにより重要だったのである。短期間に限られた数で効果的な場所を選ぶかが灯台建設の指導を担ったお雇い外国人の課題だった。
 ブラントンは提案の趣旨を次のように手記に残す。
海中に突出した地形が大きくて容易に識別でき、見誤る危険のない場所には灯台は設けない▼視界不良の際に通航の困難な海峡には、船を安全な錨地まで導くための灯台を設けて夜明けを待つようにする。もしできれば海峡の通過も可能なように灯台を設ける▼灯台を設ければ容易に通航できるか、あるいは航海者にとって数多くの島の間で自分の位置を見失いやすいような場所には灯台を設ける―(「お雇い外人の見た近代日本」徳力真太郎訳より)

夜間錨地の目印にも
 ブラントンの考えを裏付ける資料もある。第6管区海上保安本部保管の釣島灯台の守灯方日誌によると明治6年9月18日の通航船舶は、午後1時40分から同2時半までの間に下関方面への西航船4隻と、午前4時50分から同9時までの間に7隻が兵庫方面に向かったと記録する。他の日付でも、西航は午後、東航は午前中に集中している。
Map_4


 当時、瀬戸内海西部にあった灯台は西から部崎、釣島、鍋島、江崎の四基。神戸を出た西航船は鍋島付近で夜明けを待ち、反対に神戸に向かう東航船は釣島付近を錨地とし日の出とともに最大の難所である来島海峡を渡ったとみられる。釣島、鍋島を一日の出発点にすれば多島海の備讃瀬戸、急潮流の来島海峡の二つの海域も昼間に航行できる。当時の蒸気船の速度(10―12㌩)を考えれば合点がいく。つまり明治初期の灯台の役割は夜間航行というより、外国船が灯火を目印に停泊することにあったとも推察できる。

頻繁に外国船航行
 明治初期の民営の海運業、外国船舶の頻繁な渡航状況を示す資料がいくつかある。
 長門萩商社はヲテント丸で大阪・博多間に月三往復の貨客便を営業し、途中神戸・多度津・三津浜・三田尻(防府市)に寄港した(「兵庫県史」)。このころ大阪を起点にした航路は西日本各地を結んだ。いずれも豪商たちが購入した外国蒸気船で、その多くが多度津、三津浜などに寄り伊予灘から周防灘に乗り出し、三田尻、下関海峡を目指した。大型船にとって芸予の島々を縫う航路よりも直線短距離であった。伊予灘の東端、釣島水道の灯りは外国船を含めた船乗りにとって重要な航路標識となったのである。
 大正から昭和にかけて全国の灯台の航路標識技手として勤務した池田孝氏の著書「燈台」(昭和17年刊)に「釣島の三年」という文章がある。灯台勤務初任地の3年間の暮らしの中で、島の古老に聞いた話や灯台勤務の様子が実に巧みに描き出されている。
 島は周囲1里(約4㌔)足らず、海岸に12、3軒の家が散らばり、人口は百人ほど。明治6年6月に英国人によって建てられ点灯した灯台には、毎日のように英国人が犬を連れて村に来ては、鶏を徴発していくので、村の人々は非常に怖がっていた、などと聞き書きしている。
当時の灯台業務についても書き残す。3人の職員が交替で夜間、灯火を守り、昼は一日3回の気象観測と沖を通過する船を帳面に付ける仕事があった。欧州航路の船はすべて釣島沖を通過し、潮の加減では随分島近くまで寄って来て、双眼鏡で甲板にいる人の顔まで手に取るように見えた、と記している。

Photo_4


文化遺産として復元
 その灯台も昭和38(1963)年に無人化された。灯台は役割を果たし続けたが職員官舎でもあった吏員退息所は荒れ放題となっていた。平成7(1995)年に松山市の文化財となり解体修復工事で見事によみがえった。
 工事の過程で壁の下張りなどから当時の日誌、備品台帳、気象記録などが見つかった。部屋には英国から運んだマントルピース、扉や羽目板には欧州独特の「木目塗り」という装飾が施され、台所用品の備品はすべて洋食器が揃っていた。釣島という小島の灯台用地はまさしく「西洋」だった。その文書の解読から英国人から日本人の管理下に置かれた灯台の暮らしが克明に読み取れる。
 復元された文書は、航路を照らし続けた洋式灯台のあかりとともに明治以降、日本が「西洋」をいかに取り入れたかを示す貴重な歴史文化遺産である。                   (130109=畑矢健治)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.11.15

◆高山岬

 高山岬(山口県)は好きな灯台のひとつである。「こうやまみさき」と読む。漁火(いさりび)のシーズンに車が行き止まりとなる沖浦から眺めるのが一番いい。
 須佐町のホルンフェルスを見にやってくる観光客は多いが、途中から分かれる細道をその先端までいくのは釣り人くらいだろう。とはいえ住家は5、6軒あって、田畑はきちんと耕されている。沖浦から灯台の方向を確認して約15分ほど歩く。夏は草に覆われて難儀するが、晩秋から春先にかけては雑木林が心地よい。
 日本海とはいえ、暖流の影響で照葉樹系の木々も多い。途中に小さな祠(ほこら)があった。灯台はフェンスに囲まれていて愛想がない。灯台から直下の岩場への小道は急坂だが釣り人に踏まれ楽に下りられる。夕刻までいて点灯を待つ。漁火のゆらめく中での灯火は幻想世界である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.04.10

周防野島灯台

◆周防野島灯台
 野島は周防灘に浮かぶ島である。船は高速艇の「ニューのしま」。防府市の三田尻港から出る。
 週末の船は釣り客で座席は埋まっていた。飛び乗るとゲートが閉まり、エンジンフル回転で港内を出た。向島の島影を抜けると灘は穏やかだが高速艇は激しく海面を叩くように進む。南東に一直線。あっという間だ。
 赤灯台に迎えられ、桟橋に着いた。竿やボックスを転がしながら釣り客の団体が十五人ほどぞろぞろと下りた。港の堤防でさびきでアジが面白いほど掛かるらしい。潮が今からちょうどいいらしい。
 この島には二十年ほど前に一度来たことがある。ことさら目的があってきたわけではないので記憶はあまりない。そのころ暇さえあれば、瀬戸内海の島に渡っていた。船着き場のあたりの風景は、どの島も似通っていて、野島に下りて、思い出したのは笠岡諸島の真鍋島だった。
 船着き場から右手に矢立神社があった。神社の脇を抜けて簡易郵便局があり、路地を抜けると小店のガラス戸に「野島歴史文化資料館」とあった。戸は閉まっていたが、中を覗くと漁の道具や大漁旗、古い写真や文集などが雑然と置かれていた。「見学ご希望の方は、店に声をお掛け下さい」と貼紙があったが、その店にも人影はなかった。
 島の案内図を見ながら山の上の周防野島灯台を目指した。徳山から国東半島竹田津を結ぶ周防灘フェリーが野島沖を通るときに島の頂にある灯りである。三秒光り、三秒消える白い光である。
 定兼鼻の頂にあるのだが、島で灯台に通う人はなく道を老人に尋ねたら、杖で方角を示し、「石の階段があり、細道を登ったら竹薮がある。そこを抜ければワケはない」を教えてくれた。何度も細道を迷い、何とか竹薮に出た。平坦な暗い薮の先が上りとなり、道端に運輸省と刻印された石柱があった。
 見上げれば山桜など雑木の中に四角柱の白灯台が立っていた。「周防野島燈台 初点昭和53年1月」の標識。建物には「周防野島無線方位信号所」の表示もある。風向、風速などの気象観測機器があり徳山海上保安部のデータとなっている。
 海面から灯火までの高さは87㍍。白タイル張りの灯台は高さ19㍍。南西側のオモゼの岩礁に向いた照射灯を併設していたが、オモゼ岩礁に灯標が設置され廃止となった。
 形のいい灯台の撮影には周囲の雑木が邪魔をし、おまけに引きがないため断念した。帰り際、竹薮を抜けたあたりから遠望するのがやっとだった。
 船着き場近くに野島小中学校がある。ちょうど桜が満開。こじんまりとした運動場の隅に「機関車先生 幻の島 菜石島」とある木の碑が立っていた。映画にもなった伊集院静の小説。作家は三田尻の出身なので、この島をイメージしていると伝えられている。
 小規模校だが、本土から船で通学する児童も受け入れている。シーサイドスクール制度で島の自然の中で元気を取り戻す子らがいるとすれば、学校存続のためにも意義ある取り組みだろう。
島の印象が真鍋島に似ていると思ったのは、同じように港に神社があり祭りがある。小学校が映画の舞台にもなった。なにより本土からの距離がほどほどあった。                                   
Dsc_8204_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.24

瀬戸内海 明治27(1894)年灯台

Photo

 備後灘から安芸灘に抜ける海路は来島海峡を通るか三原瀬戸であった。来島海峡は瀬戸内海最大の海の難所として知られる。「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関の関(関門)」といわれ最強潮流約10ノットで遭難も多かった。
 明治20年代の後半になると、瀬戸内海海上交通の量は増大し、来島の難所を避ける航路の開拓が急がれた。
 時代背景には富国強兵が進み、近代国家への基盤をつくり上げるのに懸命の折、大陸に視野が拡大し、日清戦争前夜でもあった。明治27年7月勃発の戦争と、一連の明治27年建設灯台が無縁であろうはずがない。戦争直前に9箇所もの灯台、灯標が一斉に建設されたのである。
◇ ◇
 「明治27年灯台」(便宜上そう呼ぶことにする)。大下灯台のみ白色八角形だが、その他はすべて白色円形石造が基本形である。いずれも瀬戸の岬上または小島に位置し、比類なき美しい景観をつくり出している。
 明治初年のブラントンらお雇い外国人技師の技術で建てられた一級灯台の時代から20余年を経て、洋式灯台を独自で築き上げた成果が見て取れる。いずれも瀬戸内海産出の御影石(花崗岩)を使用し、4―8mと風景を威圧するほどの大きさでもない。灘から瀬戸へ、あるいは瀬戸から灘へと繰り返す箱庭のような内海の要所にポツンとたたずむといった風情である。
◇ ◇
Photo_3


 大崎上島を訪ねた。鮴埼灯台は鮴崎の集落の頭上にあった。急坂を9回折れるとたどり着く。北東に大久野島灯台がはっきりと見える。南南西には中ノ鼻灯台がある。因島の大浜埼、小佐木島、高根島の灯台を見ながら三原瀬戸を巡る航路は来島を通過することを思えばのどかな航路ではなかっただろうか。
 中ノ鼻灯台は温泉のある木江町の宿清風館のすぐ下にあり、観光地になっていた。南に大下島灯台が見え、大三島と大下島の間には来島大橋を望むことが出来る。
    ◇     ◇
 大浜埼灯台には明治43年開所の船舶通航潮流信号所の木造建築がそのまま残されている。かつては高根島にも同形の建物があったが撤去され、敷地跡がすっかり草に埋もれ、新しく建てられた灯台の石組周辺に名残がある。


※ 資料  明治28・8刊行 「航路標識管理所第1年報」 より
伊予 弓削村    百貫島灯台   第5等回転折射器ヲ置ク
御調郡大浜村    大浜埼灯台   無等不動折射器ヲ置キ揮発油夜灯ヲ挂ク
   長太夫挂灯立標        立標上ニ無等不動折射器揮発油昼夜灯ヲ挂ク
豊田郡鷺浦村   小佐木島灯台   大浜埼に同じ
   忠海町   大久野島灯台   無等不動折射器ヲ置ク
  高根島村    高根島灯台   大浜埼に同じ  
   東野村     鮴埼灯台    同上
  大崎南村    中野鼻灯台    同上
伊予 関前村    大下島灯台   第5等回転折射器ヲ置ク
(980225記)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.06.15

玉島灯台

 倉敷市玉島は古い蔵の並ぶ港町である。倉敷の美観地区はすっかり観光地としてにぎわっているが、江戸時代から米や醤油、肥料などの物資を積み下ろしした風情を伝えるのは玉島の旧港界隈ではないだろうか。
 倉敷市は旧玉島と児島、水島とが合併してできた都市だがそれぞれの町の個性があって、とらえどころのない市でもある。蔵が並び、美術館がある美観地区一帯のイメージでとらえると、とまどうことが多い。下津井あたりは瀬戸大橋が頭上を走る漁師町だし、水島、玉島は石油、自動車、製鉄を中心にした一大コンビナートである。小学校の社会科で学んだのは日本の四大工業地帯、つまり京浜、中京、阪神、北九州についで勢いのあったのが、ここ倉敷の水島コンビナートだった。コンビナートが発展のあかしであり、重厚長大の工場群が誇りであった時代である。
 高梁川西岸の玉島の町は、旧商港であり、クリークの走る米を中心にした農業地帯だったが、対岸の水島から伸展したコンビナートに飲み込まれるように町の様相を変えてきた。
旧港につながる入り江の奥まったあたりを散策すると、玉島の街のよさがわかる。狭い路地、大きな土蔵のある商家、明治、大正のたたずまいの銀行や銭湯がいまも残る。
入り江の両岸は、現在はヨットなどのレジャーボートが係留されているが、街並みは旧港時代そのままというアンバランスなところが面白い。水辺の公園にかつての「玉島灯台」の灯器部分がモニュメントとして、きちんと展示保存されていた。石碑に刻まれたその歴史を書きとどめておく。
≪玉島灯台の歴史≫
このモニュメントは、玉島柏島の八幡山に設置されていた「玉島灯台」の上層部をそのまま移設保存したものです。八幡山には、江戸時代に船用の灯明台がつくられ、明治16年に最初の灯台として「八幡灯台」が設置され、その後を引き継いで昭和26年に「玉島灯台」が建設されました。以来42年間にわたって、玉島港へ出入りする船はもとより、水島灘を航行する船の道しるべとして重要な役割を果たしてきました。
しかし、玉島E地区の埋め立てが進み、灯台の役割が十分果たせなくなったため、平成5年2月、約2.8Km沖合に「水島港玉島防波堤灯台」が新たに建設され、「玉島灯台」はそのつとめを終えました。
私たちは、海上交通の安全のため、灯台の果たす役割やそれを支える海上保安庁の任務の大切さを再認識するとともに、通称「八幡灯台」として、市民の皆さんに長い間親しまれてきた「玉島灯台」を港町玉島のシンボルとして末永く保存するものです。
≪玉島灯台の概要≫
設置年月 昭和26年6月  光達距離 16海里(約30㎞)   燈質  閃白光毎5秒1閃光   
地上からの高さ  11.8M  光源   100ボルト、500ワット  平均海面からの高さ  31M 
光度   25万カンデラ     廃止年月 平成5年2月                                                              岡山県    倉敷市

 公園にあるモニュメントは灯台のほんの一部、灯器部分だけである。銘文にある柏島の八幡山を訪ねた。公園から車で7,8分。公園から見れば入り江をはさんで南方の小高い丘の上である。そこには八幡山の名の通り八幡神社があった。灯台の基礎部分はここにそのままの形で残されていた。
 丘から玉島港の入り口、そして水島灘をみはるかすには木立が覆い茂ってはいたが、それがなければなるほど入船にとっては格好の道しるべの位置であったに違いない。東側の玉島乙島の住友重機や中電発電所、さらに高梁川の対岸の水島の大コンビナートの埋め立て前なら、備讃瀬戸を抜けて玉島を目指す船には重要な灯りであったことは想像がつく。

6管資料の「瀬戸内海燈台百年・年表」の昭和26年6月の記述も拾っておく。
≪玉島灯台を設置≫昭和26/6/8
管内で初めてLB型灯器を使用した。LB型灯器は従来の大型灯台の灯器に比べ軽量小型でかつ高性能であるため、以後の大型灯台に多く採用され光度の増大のみならず灯塔の構造に対しても大きな影響を与えた。
 丘を車で下り県道との交差点に、小さな灯台のモニュメントがあるのに気づいた。高さ3Mばかりのコンクリート製。基礎部分に「八幡灯台保勝会」とある。明治16年の最初の「八幡灯台」とも思えない。昭和26年、玉島灯台設置までの八幡灯台とも考えられなくもないが、説明板らしいものもなく、確認のしようがなかった。県道沿いにはどこからか移築してきたものであろう。さきの6管資料の年表の昭和26年6月10日の項に「玉島港八幡灯柱を玉島町より移管さる」とある。港入り口にあった灯柱が、沖合の埋め立てや防波堤建設で役目を終えたものだろうか。
①公園に設置された玉島灯台の灯器部分

②八幡山の八幡神社そばの玉島灯台。上部は取り外された

③県道沿いにある八幡灯台。「八幡灯台保勝会」とある

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.02.23

大久野島灯台に関する聞き書き

      
中山加代子さん=1915(大正4)年生まれ=

 父は倉田伊代吉といいます。昭和12年、勝浦で退官しました。大久野島の前は伊江島、その前は沖縄で、伊江島の時、小学校1年でした。尋常小学校5年の時、忠海に来ました。島に官舎があったのですが、最初は本土側の忠海に家を借りていました。兵器製造所が出来るというころでした。小学校、忠海高女に通いましたが、途中から島の灯台のそばにある官舎に住みました。
 本土から兵器製造所にたくさんの工員さんが船で通って来られました。灯台の船もあったのですが特別、便宜を図ってもらったのでしょうか。製造所の船によく乗せてもらいました。船は兵器製造所の桟橋を使っていました。
製造所のことは秘密の兵器、戦争で使う日本で初めての兵器と聞いていたが、毒ガスというのは知りませんでした。事務所が真ん中にあり、灯台との敷地とは鉄条網で仕切られました。島は製造所が出来てすっかり変わりました。山にウサギがいて、山ツツジがいっぱい咲いたのどかな島でした。海でタコをわしづかみにして捕った思い出もあります。昭和8年に忠海高女を卒業しました。私自身は忠海に10年間いました。
 灯台の暮らしはここはのどかでした。父が灯台長で、部下と2世帯が官舎に住んでいました。小使い(用弁)さんがいて、風呂を沸かすなどの雑用をしてくれました。
 灯台の灯を守る仕事の他に気象月報、潮流、いくつかの浮標の保守点検もあったようです。
敷地内に井戸がありました。どの灯台でもそうでしたが、ここにも天水を溜めるコンクリート製のタンクがあり、モダンな大きな形でした。生水は一切飲まず、ここで蒸留、精製したものを飲んでいました。(東京在住、98年7月聞き書き)


 村上初一さん=1925(大正14)年生まれ=元毒ガス資料館長
 有刺鉄線で灯台用地と毒ガス製造所は分けていた。灯台用地はきちんと、分けられ灯台のすぐ下に独自の係船場があった。島の南端の一角、つまり灯台部分は愛媛県という誤った説があった。灯台は大三島側の宮浦で管理したんじゃあなかったか。それでそんな説になったかもしれん。
 「陸軍所轄地」という石柱があるはず。「所轄地」との表記は明治中期(※灯台は明治27年初点)。「陸軍用地」は大正、後に「陸軍省」となるはず。
 昭和19年ごろ、灯台の官舎にもよく行った。木造平屋で部屋はいくつもあり、伝声管があった。忠海高女に通う娘さんがいて、製造所の技師が乗る通船に特別に乗っていた。私が昭和15年4月に高小(いまの中2)出たころの話だ。
 大久野島沖は水深65Mあり、巡洋艦も頻繁に通る重要航路。灯台も重要灯台のひとつだったのだろう。
(竹原市在住、93年12月聞き書き)=畑矢健治

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.02.20

灯台文献リスト■1

▼〈燈臺〉石川源二著・大正3年刊
 日本は開国の明治初年以来、半世紀で光学土木、建築学、音響学など諸学にわたる西洋灯台技術を学び修得した。わずか半世紀で得た灯台学の知識は、わが国近代化と歩みを同じくする。この著作はその集大成でもあった。
①航路標識②霧信号③航路標識の設計―からなる635頁は精致な技術書である。
 口絵写真の「大浜﨑潮流通航信号所」(因島)の威容は現在の様子からは想像出来ない。巻末の各国灯台事業概要も重要な記述である。=1997末広島本通古書アカデミイにて¥5000で購入=

日本の名著「岬」(森田敏隆・光村推古書院)2000年
 この写真家はきっと灯台のある風景をこよなく愛しているのに違いない。森田敏隆さんは「瀬戸内」や「国立公園」などの風景の写真家として著名。この「岬」の一枚一枚には写真家が風景と真摯に向き合う姿がにじみ出ている。「人生の岐路に立ったとき、私は岬に足を運ぶ」という氏が、30年間かけて四季の岬を撮った労作である。沖縄から九州へと北上し北海道・宗谷岬で締めくくる。叶埼、妙見埼、沢崎鼻、黒崎、竜飛埼、霧多布など地味ながら灯台研究には必見の場所があるのがうれしい。 (1600円)

▼明治期の灯台に魅せられて(鈴木博私家版・1998)
▼伊王島歴史散歩(長崎県伊王島教委・1994)
▼R・H・ブラントン 日本の灯台と横浜のまちづくりの父  (横浜開港資料館・1994)
▼博物館明治村ガイドブック(博物館明治村・1993)
▼せとうち風光・特集「燈台」(瀬戸内風光研究会・1998)
▼灯台の潮風だより(千趣会・1998)
▼港町に魅せられて(千趣会・1998)
▼業務統計資料集〈平成10年版〉(6管・1998)
▼政府広報「時の動き」特集海を守る(総理府・1998)
▼北海道神威燈台絵葉書(外山商店発行13枚組・戦前)
▼岡山文庫14 瀬戸内海(日本文教出版・1967)
▼美保関灯台百周年記念絵葉書「扉を開けば大正ロマン」(記念事業実行委員会6枚組・1998)

▼広島周辺の海釣り(中国新聞社)
▼山口の海釣りー瀬戸内から日本海まで(同)
▼山口の海釣りー日本海編―(同)
【日本の釣りシリーズ】の副題のある航空写真で釣りのベストポイントを紹介するガイド本は灯台散策に実に役に立つ。全国の地方新聞社が発行しており、灯台を訪ねる前か後に、この本でたどった道のりを確認するのに便利である。初めて訪ねる灯台への道は地図に記載されている通りでないことが多い。島の道は特に、灯台の管理が無人となり定期的に訪ねるとはいえ、夏草が覆っていたり、道が荒れていることがしばしばある。島の段々畑も年寄りばかりで手が入らず、灯台への道が閉ざされていることが幾たびもあった。今、島の端っこまで道をかき分けて入るのは、灯台巡りか、釣り人である。山口県須佐町の高山岬灯台、淡路島南淡町の沼島灯台は釣り人と途中まで一緒だった。防府市沖の野島灯台は、道が夏草に覆われ、何度も行方を遮られ辿り着くのに2時間近くかかった。そんな苦労を、空から眺めながら回想するのにちょうどいい本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

灯台文献リスト■2

嵐の中の灯台―親子三代で読める感動の物語 (明成社・2001年)
  明治後期から終戦直後までの修身・国語教科書に収められたの物語を読みやすく現代風にリメイクした。表題の「嵐の中の…」は、坪内雄蔵著「国語読本 高等小学校用巻二」(明治33年・5年生用)「第4・5課 燈台(上・下)」が原典。舞台は北米の離れ小島。灯台守の父親が油や食料の調達に向こう岸の港町に出かけた。天候が急変し、大嵐に。島に残した8歳の一人娘が小船で帰る父と灯台の明かりを頼りにする船乗りのために必死で明かりをともす。児童向けの掌編読み物。このほか豊田佐吉の自動織機、青の洞門、通潤橋など。 1200円
                                
三井グラフ 124 (三井物産広報委員会・2001/7)
   特集・にっぽん岬めぐり/いつか訪ねたいユニークな岬たち。
   表紙は宮古島・東平安名崎 

▼明治期の灯台に魅せられて(鈴木博私家版・1998)
▼伊王島歴史散歩(長崎県伊王島教委・1994)
▼R・H・ブラントン 日本の灯台と横浜のまちづくりの父(横浜開港資料館・1994)
▼博物館明治村ガイドブック(博物館明治村・1993)
▼せとうち風光・特集「燈台」(瀬戸内風光研究会・1998)
▼灯台の潮風だより(千趣会・1998)
▼港町に魅せられて(千趣会・1998)
▼業務統計資料集〈平成10年版〉(6管・1998)
▼政府広報「時の動き」特集海を守る(総理府・1998)
▼北海道神威燈台絵葉書(外山商店発行13枚組・戦前)
▼岡山文庫14 瀬戸内海(日本文教出版・1967)
▼美保関灯台百周年記念絵葉書「扉を開けば大正ロマン」(記念事業実行委員会6枚組・1998)
             

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.02.11

近代化遺産としての釣島灯台

 松山沖約8キロに浮かぶ釣島。桟橋から灯台まではミカン畑の中の山道をとぼとぼと登る。時折振り返ると、釣島水道を行き交う大型船が見える。瀬戸内海とはいえ、ここからのパノラマは大型スクリーンに映し出された大海原である。視界から船影が消えるまでの時間がとても長い。 この場所に灯台を設置した英国人R・H・ブラントンの目の確かさを感じる。
      ■      ■      ■
 釣島灯台の旧官舎の復元工事がこの夏、完了したので見学に行った。荒れ果て崩壊寸前だった明治の西洋館は見事によみがえっていた。幕末から明治にかけわが国が近代化に向け、西洋の技術を導入し建設した近代化遺産が次々と壊される中で、この西洋館復元の意味は大きい。
 釣島灯台の初点は明治6(1873)年。建設工事に着手したのは明治4年のことである。明治維新直後、お雇い外国人として明治政府に招聘されたブラントンの仕事である。
 ブラントンは明治元年に来日、9年に帰国するまでの間に、日本の沿岸に26基の灯台と2基の灯船を手がけた。わが国の「灯台の父」といわれるゆえんだが、瀬戸内海の灯台だけを列挙しても次の通りである。 江崎(淡路島)、和田岬(神戸)、天保山(大阪)、六連島(下関)、部埼(門司)、友ケ島(和歌山)、鍋島(備讃)、釣島。
 維新後、文明開化の波が寄せているとは思えぬ瀬戸の小島にやって来た外国人に島民が驚いたのは想像に難くない。外国人が手がけた灯台の地で、明治の初年に地元民がどう対処したかが文書で残されている例は極めて少ない。釣島の場合、現在も看守補助員を務める小林元翁さん宅が代々灯台の仕事にかかわっていることから、さまざまな言い伝えが残る。
 英国人の灯台技師は建設着手以来、点灯後の明治9年四月ごろまで数人が居住し、日本人の灯明番の指導に当たっていた。 小林氏の先祖鉄造氏と英国人技師らの関係は極めて良好だったようだが、食材はすべて神戸、三津浜経由で島に運ばれ、日本食は果物以外、口にしなかったという。
      ■      ■      ■
 旧官舎の復元は文明開化時のわが国に「西洋」が移入された様子を如実に示した。
 昭和38年に無人化され、荒れ放題だった官舎は平成7年に松山市の文化財となった。修復工事の過程で壁紙をはがしていたら、下張りに使われていたのが日誌、備品台帳、気象記録などだった。
 備品台帳には、灯台本体の反射鏡やレンズ、石油ランプなど灯台業務に関するものから、調度品、台所用品までが事細かに数とともに記載されていた。
 台所用品の備品には「野菜皿」「牛酪皿」「羮皿」「バタ入鉢」「砂糖匙」「鶏卵台」など日本語に訳されてはいるが、ありとあらゆる西洋料理のテーブルが想像される。
 4つの部屋には、英国から持ち込んだマントルピースが備えられた。扉や窓枠、羽目板には「木目塗り」というヨーロッパ独特の装飾塗装が施されている。
 釣島という小島での「西洋」は灯台用地の中で培養された。英国人技師の時代、英国人と日本人の見習いの同居時代、日本人だけになった時代―と変遷する。
 ブラントンは全国に灯台を建設後、各地をテーボル号、明治丸で巡回する。明治7、8年の英国への報告文は興味深い。釣島の生活、居住部分について厳しく指摘する。
 「・・・住居部分の使い方は全くひどい有り様であった。各自に部屋を与え、家具も割り当てた」(1874.10.6=明治7)、「・・・住宅はかなりだらしのない状態であった。ここにおける部屋の使い分けはまともでなく、各部屋を最適な用途に使うことは困難である。以前の訪問の際、灯台守たちに家具の配置について指図したのだが、その命令は実行されないままでいた。そして両住宅、台所、便所は不潔で汚く、手入れが不十分である」(1875・8・3=明治8)とつづった。
 それは英国人と見習い日本人がいた時代と思われる。おそらく2,3人いたであろう教師役の灯台技師が異国の果ての小島でどういう暮らしをしたのか。技術を学び取ろうとした日本人灯明番とどうかかわったのだろうか。今後の興味深いテーマである。
 解読されたさまざまな下張り文書、洋館に日本人が次々と手を加えて行った過程などから見えてくるものがある。明治以降、日本が「西洋」をどう取り入れていったかを探る格好の歴史文化遺産といえる。(980225=畑矢健治)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.14

松江で島根半島の灯台写真展

Photo_38
 明治時代に建てられた日本を代表する島根半島の二つの灯台の歴史を紹介する写真展「出雲日御碕と美保関灯台」が松江市朝日町の広島銀行松江支店ロビーで開かれる。灯台研究会主催。2月1日から28日まで。
 両灯台は、日本海を航行する船舶の道しるべとして重要な役割を果たしてきた。写真の多くは、昭和18年まで数年間、出雲日御碕灯台に勤務した伊藤武夫さん(故人)が撮影。日本一の高さを誇る灯塔の白ペンキ塗りやレンズ磨き作業、灯台守と地元の人々の交流、漁業や祭りなど日御碕の人々の暮らしぶりにもカメラを向けている。また戦後、海上保安部の工務課長時代に訪れた戦後まもない美保関灯台の写真もある。
S26
 展示される30枚は、美しい明治の石造建築の姿と灯台守の仕事や暮らしぶりを伝える貴重な資料ばかりである。
【写真】灯台の塗装作業(昭和18年ごろ)【写真】ウミネコと出雲日御碕灯台(昭和26年)
■第8管区海上保安本部境海上保安部のHPhttp://www.kaiho.mlit.go.jp/08kanku/sakai/index.htmlに写真展と出雲日御碕灯台の詳細が紹介されました■

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.13

切手の中の灯台

 小学生のころ、ブームで切手を集めていた。家族あてに来る封筒やはがき、小包の切手を切り取り、洗面器に張った水できれいにはがした。国立、国定公園や日本三景などの観光地の切手が多かったような気がする。切手帳という保存ノートがあり、その中にジャンル別に並べた。ジャンル別というのは、通常切手や国体、観光地、記念日もの、浮世絵などがあった。なかでも観光地ものに力が入っており、北海道から九州までを地域別に分け、並べていた。
 切手の絵の記憶は確かなもので、野島埼灯台と海女をデザインした「南房総国定公園」(1961)、「足摺岬」(1960)、断崖の上の大瀬崎灯台を描いた「西海国立公園」(1956)は、コレクションしており地図でその場所を確認した。
 切手ブームは一瞬のうちにして去り、大切にしていた切手帳も書棚の端でほこりをかぶったままとなり、そのうちどこかに消えた。当時、マッチ箱に描かれた東海道53次の宿場ごとの広重絵も集めていた。父親の吸う煙草とともにマッチ箱があったのだが、これも30宿ほどをきちんとノートに貼り付けていた。浜松、見附、桑名、掛川…いまもあればなかなかのコレクションだが惜しいことに、これまたどこかに行った。
                                      
 備讃瀬戸海上交通センターの水澤正彦さんから、珍しい切手を灯台研究会にいただいた。
 1968(昭和48)年11月1日の「灯台百年記念郵便切手」。久里浜のスタンプが押印された台紙付きである。水澤さんによると、当時はまだ小学生で、海上保安庁に入って初任地の沖縄で先輩から入手したもので、燈光会が当時の灯台職員に配布したものらしい、とのこと。灯台研究会の資料に加えさせていただきました。(010630)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.11

伊藤武夫元六管課長が撮影 灯台史の空白に明かり 戦中・戦後の写真発見

 戦中、戦後にかけて各地の灯台に勤務した伊藤武夫さん(七三年、六十九歳で死去)。戦時中から1948(昭和23)年に海上保安庁が発足した直後までの、全国の灯台の写真百数十枚が長野県上田市で見つかった。灯台と官舎、灯台守の仕事やその家族の暮らしぶりなどを丹念に記録している。発足五十年を迎えた海上保安庁にも、こうした写真は少なく灯台史の空白を埋める貴重な資料である。
 撮影していたのは戦時中、広島県大竹市沖の阿多田島の灯台長だった伊藤武夫さん。塩屋埼(福島県)、石廊埼(静岡県)、沢埼(新潟県)、出雲日御碕(島根県)から阿多田島へと全国各地の灯台に勤務した。阿多田の灯台長時代には、広島に外出していた妻子四人を原爆で亡くした。保安庁発足後は広島の第六管区海上保安本部の工務課長を務め、戦争で大きな被害にあった管内の灯台などの復旧に尽力した。
 若いころから写真が趣味で、勤務地では職務の様子を撮影したほか、地元の人々の暮らしぶりにもカメラを向けた。退職後は郷里の上田市で写真店を営んだ。赴任する先々で撮り続けた膨大な写真のネガやプリントを残した。アルバムやネガのまま箱詰めしていたのを再婚した妻ミサヲさん(85)が大切に保管していた。
 灯台職員にとって数年に一度の大仕事だった灯台の白ペンキ塗り、日常の業務だったレンズ磨き、気象データの計測などの作業風景と霧信号の発生装置、潮流信号機などの機械類の写真は、当時の灯台保守の業務を知る手掛かりとなる。灯台が無人管理になる1960年代まで敷地内にあった明治時代の石造りの西洋館の宿舎の姿も多くとどめている。
 戦時下、米軍機による機銃掃射で、レンズや光源が大破した広島湾の安芸白石灯台や爆撃の目標にならないよう黒く擬装した佐田岬灯台などの写真は貴重だ。戦後まもなく瀬戸内海の機雷の掃海作業が行われ、掃海水路に浮標を設置するのも重要な仕事でそれに関する記録写真も数多い。
 灯台業務の重要さを普及、啓蒙し、資料の収集をする社団法人燈光会(東京)の吉田武治常務理事は「戦時中と戦後の灯台とその業務を記録した貴重な資料ばかり。離島や岬の辺鄙な場所で航路の灯を守った苦労が一枚一枚から読み取れる。灯台の歴史と灯台守の仕事を後世に伝えるのに役立つ1級の資料だ」と話している。 (980720)

【写真】日本一高い島根県の出雲日御碕灯台のペンキ塗り作業。鉄製のつり枠に乗り、地上からロープを操作し移動させた(1942年ごろ)
【写真】レンズを磨く灯台職員。日々欠かせぬ作業だった=出雲日御碕灯台(1942年ごろ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.09

音戸灯台は灯塔撤去し仮設のあかり

芸予地震 航路標識33カ所被害 広島・愛媛・香川
 2001年3月24日芸予地方を襲った震度5強の地震で、広島湾を中心にした灯台など33カ所の航路標識に被害が出た。第6管区海上保安本部灯台部がまとめた。
被害が大きかったのは震源地となった安芸灘付近や瀬戸内しまなみ海道沿線の島嶼部が中心。広島18カ所、愛媛13カ所、香川2カ所となっている。
   ◇    ◇
Ondotoukai_1
 被害が最もひどかった音戸灯台を訪ねた。音戸瀬戸の呉港への導入部、音戸町坪井の崖の上38Mの位置に白タイル塔形(高さ9・5M)として立っていた灯台は、ひびが入り倒壊の恐れがあるとして急きょ撤去が決まり、仮設の灯火が点されていた。
 地震直後の被害状況は、直径約2Mの円筒形の灯塔の地上から3Mの周囲に亀裂が入った。地震直後に灯台に上がったのは、直下に住む平清一さん。大きな亀裂が入っていたため、余震があっては家を直撃する恐れがあるため、6管に通報したが電話がなかなかつながらず、あわてたという。
   ◇    ◇
 灯台は1959(昭和34)年3月初点、93(平成5)年3月に改築した。改築の際、灯台の周囲の土地を平さんが60坪ほど海上保安庁に売却。法面をコンクリートで固めたうえ、地盤もコンクリートを張り、かさ上げ、鉄製部分をステンレスにするなど大改修を施したばかりだった。
 地震翌日には撤去の方針が決まり26日には、削岩機などを使い円筒部を外し、青色のビニールシートで覆った。灯火は鉄骨で組んだ足場の最上部に設置された。
 「Iso w 6s 等明暗白光 明3秒暗3秒」のこれまで通りの光を発している。
 
 点灯する夕刻6時半ごろに平さんの庭先から急坂を灯台まで登った。直下に音戸瀬戸から出入りする松山航路のスーパージェットやフェリー、貨物船が行き交う。
 瀬戸の渦潮と同様に強い風が巻くように吹き上げて来る。遠くに小麗女、屋形石、宇品の灯が続くはずだが、小麗女の灯だけが見えた。
 建築現場の足場の上に仮設の灯が点るが、灯塔復旧の目途はいまのところ立っていない。
     ◇   ◇
 そのほかの被害は、広島港西防波堤灯台の灯火部分のプラスチックフィルターの落下、安芸白石灯標、屋形石灯標のレンズのひび割れなど。(010401)
音戸灯台は強化プラスチック製灯台として02年3月20日、復旧した。
【写真】鉄パイプの足場の上で、航行する船舶を見守る音戸灯台の「仮設灯」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.12.02

◆豊後水道・鶴御埼

Turumisaki
 九州最東端で豊後水道に臨む鶴御埼に来た。展望台から見下ろせば、青い海原に白い灯台が映える。灯台を眺めるための展望台を持つ幸せな灯台はそうあるものではない。テーマソングもある。地味ながらカラオケ演歌では定番の鳥羽一郎の「男の港」。当地を訪ねるとこの曲が流れ続け、耳に残る。四国側の佐田岬も要塞だが、ここもまた砲台や壕がいくつも残る。要塞をうまく利用して灯台の半地下の一角は漫画家富永一朗の記念館である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.11.29

豊後水道 海事資料館&渡り鳥館

Taiso
 大分県鶴見町にある豊後水道「海事資料館・渡り鳥館」を訪ねた。その内容の充実ぶりには少々驚かされた。
 灯台に関する資料館はその多くが見てがっかりする内容が多い。あまりにきれいに整備し尽くして、当時の灯台員の実際の暮らしぶりが想像できないものが多いのも理由の一つといえる。
 地元の観光資源として手を加えるあまりに、離島、あるいは岬の突端に暮らした灯台員の生活感などをさっぱりと切り捨て、きれいな観光パネルを並べたり、退息所内をロビー風に改造したりしたケースがほとんどである。
 さほど期待もせず、鶴御崎灯台の帰途に立ち寄った。鶴御崎から下るカーブの多い坂道から豊後水道に浮かぶ水ノ子島灯台(1904年初点)を眺めながら車を走らせた。うっかりすると通り過ぎても不思議は無かった。下梶寄という小さな集落は灯台施設を中心に民家が取り囲む漁村のたたずまいだった。
 資料館は、水ノ子島灯台の吏員退息所(1903年完成)がそのまま利用されている。
 浜から一段高い退息所敷地は当時のままの塀がぐるりと取り囲む。堀越しに北東方を真っ直ぐ見つめると14・5キロ沖に水ノ子島の灯台がはっきりと見える。
 海事資料館は5世帯が住んだという吏員退息所がそのまま使われている。展示品は水ノ子島の縮小模型、水ノ子島灯台の気象月報(明治37~昭和17)、暴風報告、地震報告綴、灯台公報綴など。さらに初点灯を知らせる告示電報や傭船の請負契約書など同所ゆかりの文書を事細かに並べている。
 館内は展示スペースで半分近くを改造しているものの、灯台員家族が住んだ部屋や厠(便所)はそのまま原形をとどめている。1959(昭和34)年に用途廃止で無人になるまでの暮らしぶりをほうふつとさせる。
     ◇
 渡り鳥館は当時の物置が改装された。物置とはいっても退息所同様、明治の西洋館である。
 水ノ子島灯台で衝突死した渡り鳥を丹念に回収し、はく製にした62種が展示してある。1963(昭和38)年から1984(昭和59)年までの22年もの間、この灯台に勤務した川原忠武さんが残した仕事である。
 春と秋の渡りのシーズンには、鳥たちが豊後水道付近を集団で南下、あるいは北上する。鳥の多くは外敵に襲われることの少ない夜間に月明かりなどを頼りに移動する。視界さえ良ければ順調に渡って行くが、霧などで急に視界がさえぎられると、強い光を放つ灯台に向かって集まってくる。衝突死はこうした際に起きる。
 渡り鳥のコースに灯台があるものの、衝突死の報告があるのは水ノ子だけという。ひろびろとした豊後水道の真ん中で止まる場所がない灯台だけで起きる現象と川原さんは書き残している。
 長期にわたり衝突死した渡り鳥を回収しての標本は、学術的評価も高く、展示がその全容を示している。
     ◇
 資料館の案内役は地元の山岡源十さん(71)がしてくれた。
 水ノ子島灯台の難工事は1900(明治33)年に始まり4年がかりだったという。瀬戸内海の徳山(黒髪島か)の御影石を、下梶寄の浜に運び込み、ここで加工しては島に運んだらしい。
 退息所の屋根の瓦には、一枚一枚に当時管理の逓信省の〒のマークが入っている。(ほぼ同じ時期の姫島灯台の退息所の瓦には、無かった)。
 山岡さんが水ノ子島灯台の思い出を語ってくれた。
 下梶寄には小学校がなく、隣の梶寄まで草ぼうぼうの細いウサギ道を通った。いつも棒切れを持って、クモの巣や露を払いながら歩いた。今の光とはまるで質が違うという。
 戦後、灯台のペンキ塗りの仕事を手伝いに行った。
 今でこそ海水浴場にもなって、観光客が来るがそれ以前はここまで下りてくるものはほとんどいなかった。国から町が買い取り、資料館にした。去年、建物が文化財になったというのでテレビや新聞が取材にきた。
 「にぎわうことはありゃあしません。今日でも日曜日いうのにあんたが初めての客。雨上がりで空気が澄んでて、水ノ子がこれほどくっきり見渡せる日は珍しい」という。
 水ノ子島へ渡る機会があれば、もう一度、ここを訪ねたい。(980715=畑矢健治)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.11.24

石狩&日和山灯台

 映画「喜びも悲しみも幾歳月」(松竹・1957・木下恵介監督)に登場する北海道の2つの灯台を訪ねた。新婚の有沢夫婦(佐田啓二、高峰秀子)の2番目の勤務地だった石狩灯台と、エンドマークとともに老夫婦が灯台への  坂道を歩んだ日和山灯台。3月下旬、まだ雪深い灯台までの道が遠かった。
Isikari
 映画の中の石狩灯台はいつも深い雪に埋もれている。郵便屋が馬橇でやってくる。馬橇が走ったであろう道を石狩川に沿い河口まで車で走る。石狩市親船の集落を突き抜け、最後の細道は堤防土手の下で行き止まり、膝上まである雪をかき分け、土手を上ると湾からの風が河口からまともに吹きつけてきた。
 赤と白の灯台がすっくと立つ。鉛色の空と雪原に強烈なコントラストで映える。灯台まではまだ1キロばかりあるだろう。土手の上の雪は強風で吹き飛ばされ、歩くのは楽だ。土手道から河畔までの雪上に足跡が続く。
 よく見ると100メートル程の間隔で釣り人の黒い影がうずくまる。
 映画では、灯台長以下3家族が住んだ。退息所の建物はいまは跡形もない。厳寒の僻地という設定で、実際もその通りだったのだろう。同僚の妻は病み、馬橇で町の病院に運ぶ途中、息を引き取る。高峰秀子は産気づき、産婆が来るのが間に合わず佐田啓二が長女をとり上げる。
 「ちゃんとした町の病院まで3里(12キロ)ある」というから、現在の石狩市役所あたりだろうか。札幌の駅から灯台までは北におよそ20キロだが、雪と当時の道路事情を考えればその距離は今の数倍だろう。
 石狩川の左岸河口、砂州上にある灯台は明治25(1892)年の設置当時は砂州の先端のほぼ水際にあった。しかし現在は海までまだ200メートルばかりある。上流から運ばれた土砂が堆積し、灯台の位置がずいぶん内陸になってしまった。
    □   □   □
Hiyoriyama
 日和山灯台はまだ雪に埋もれていた。
 小樽からは車で10分ばかり。祝津の港を見下ろす高島岬の高台にある。標高は40メートルという。港で道は行き止まりになった。
 民宿の青塚食堂の駐車場に車を止めさせてもらう。店に入るとまだシーズンオフらしくおばさんたちがストーブを囲んでいた。
 コーヒーを注文して「灯台に行きたいんですが…」と尋ねた。
 「まだ除雪しとらんので坂道を上るのは無理」といわれた。あと1週間もすれば、水族館も鰊御殿もオープンするので除雪はその時までしない、という。
 表に出て灯台を見上げた。わざわざここまで来て、300メートルばかりの雪道くらいで断念するわけにはいかぬ。
 「上り口はどのあたりか?」と聞くと「本当に行くのかい」とおばさんは指でおおよそのコースを示した。
車に戻り、カメラをリュックに詰めていると店の娘さんが黒い大きな長靴を手に「これをどうぞ」と貸してくれた。膝上までは埋もれる覚悟を決めていたがお陰で気持ちが楽になった。
 灯台への道はどこも難儀だが、道が雪で分からないというのは初めての経験である。すぐ目の前に赤と白の威厳のある灯台が見えているというのに、時折溝に胸まで落ち込みながらようやく丘の上に辿り着いた。灯台のある高台は海からの風で雪が吹き飛ばされるのか、雪の量は意外に少なかった。
 日和山は船の出入りを見渡せる小高い丘の名称。全国各地に昔からその名で呼ばれる山がある。方角石が残されている場所が多い。あちこちの港の出入り口にある日和山には灯台が幾つも設置されているが、灯台の名称で日和山を冠しているいるのはここだけしかない。
 小樽日和山は幕末に鰊漁で栄華を極め、北前船の航行でにぎわった小樽港への導入部で重要な航路の指標だった。明治以降は商港として栄えた。そのため灯台の設置は明治16(1883)年と比較的早い。設置当初は木造6角形だったが現在のコンクリート造りになるのは昭和28(1953)年である。
   □   □   □
 さて映画のラストシーンである。濃い霧の中を夫婦がとぼとぼと新しい任地となる灯台への坂道を上っていく。この映画では観音埼、石狩、女島、弾埼、御前埼、大王埼、男木島、御前埼と夫婦は全国の灯台を渡り歩く。
 すべての任地はタイトルと地図で明示されるが、ラストシーンだけは場所が明らかにされず、灯台の姿も霧の中にかすんでいる。幾多の喜びも悲しみも味わった灯台守夫婦のおそらく最後の任地となるであろうこの地も、のどかな穏やかな海ではないと暗示するようなシーンである。
 その名は紹介されないけれども、映画のロケに使われたのは地元の自慢でもある。灯台を振り返ると、白い閃光が夕闇に輝いた。映画のラストシーンを思い起こしながら、長靴の深い足跡を一歩ずつ踏みしめ、ゆっくりと上って来た坂道を下りた。(990326=畑矢健治)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.09.16

■灯台のある風景① 男木島 高松市 

41年前 映画で一躍脚光
 戦時中から戦後にかけて広島湾の大竹市阿多田島の灯台長だった伊藤武夫さん(1973年没)が撮影した灯台の写真が大量に発見された。わが国の近代化と歩みをともにした明治以降の灯台の姿を記録している。伊藤資料をもとに、瀬戸内海の灯台を訪ねた。

Photo_26
 男木島灯台は高松市沖の男木島北端で備讃瀬戸に臨む。地元香川県の庵治の御影石造り。塗装を施さず、石の地肌を生かした造りは比類のない美しさを誇る。
 伊藤さんが撮影したのは第6管区海上保安本部工務課長時代の1950(昭和25)年ごろ。浜の用船にはまだ「逓信省」の文字が読みとれる。
 島の灯台が一躍脚光を浴びたのは映画「喜びも悲しみも幾歳月」(57年)のおかげである。灯台長夫婦は長男をここで亡くす。灯台長の佐田啓二に息子の急を知らせる妻高峰秀子が駆けつけた浜辺は、今も変わらない。
 この瀬戸は1日約1200隻の船が航行する。81年に着任した大阪府阪南市、河上正治さん(71)は「濃霧の多発海域。しかも瀬が多く、それは気を使いました」と振り返る。映画公開から20年以上たっても見学者が相次いだ。内部まで見せなくてもいい、との指示があったがこんなに遠くまで来てもらって申し訳ないと、妻繁子さん(68)が応対した。
Ogisima
 灯台職員と家族が住んだ吏員退息所は灯台同様、1895(明治28)年の建設。1987年、灯台は無人化され官舎は不要になった。明治の洋館が次々に壊される中で、ここは地元の強い要望で「灯台資料館」として生き残った。
 今も年間2000人が訪れ、映画のシーンをよみがえらせる。
【写真】灯台と退息所の建物は現在と変わらない。当時は2家族が暮らしていた(1950年ごろ)=伊藤武夫資料から
【写真】御影石そのままの美しさが魅力の灯台は見学者が絶えない

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■灯台のある風景② 大久野島 竹原市 

戦中、地図から消される
Photo_27
 竹原市沖の大久野島灯台は戦時中、島ごと地図から消えていた。
 国土地理院の前身でもある大日本帝国陸地測量部が1938(昭和13)年に発行した5万分の1の市販の地図は大久野島周辺が白く消されている。市立書院図書館が保存するこの地図は、旧陸軍の毒ガス製造拠点で軍機保護法が適用された島の歴史を伝えている。
 国民休暇村を中心に島全体がリゾート地になったものの、製造工場で働いた人々は後遺症に悩み、土中の残留物はいまなお戦争を引きずっている。
 1894(明治27)年に完成した灯台は、島の南端に位置する。
 1962年までは灯台のある岬の付け根に官舎があった。東京近郊に在住の中山加代子さん(82)は昭和の初め、灯台長だった父の転勤で沖縄の伊江島灯台から来た。
 女学校に通うのに不便なため母親と本土側の忠海に家を借りていた。父の働く灯台に行く時は、兵器製造所に通う工員の船に便乗させてもらった。
 「桟橋は一緒でしたが、灯台の敷地との境には鉄条網が張られました。工場では戦争に使う日本初の秘密の兵器を製造中と聞かされました」と回想する。
Photo_28
 明治の灯台は92年に大改修された。灯台に上がる小道の草むらに立つ「大久野島燈台用地」「陸軍省所轄地」の石標が当時の境界をいまも教えている。
【写真】明治の石造りの灯台。手前に木造の官舎があった(1947年ごろ)=伊藤武夫資料
【写真】休暇村広場から散策路を登ると灯台が見える。向こうは大三島

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.09.15

■灯台のある風景③ 鍋島 香川県坂出市

Photo_22
開化の風漂わす重厚さ

 瀬戸内海には明治時代に建設され、現在も機能を果たしている灯台が数多い。
 瀬戸大橋を見上げる香川県坂出市の鍋島灯台は、その中でも特に歴史遺産として文化的価値の高い灯台である。
 1872(明治5)年、明治政府のお雇い外国人だったイギリスのR・H・ブラントンが建設した。維新後わずか5年のことである。江埼(淡路島)、友ケ島(和歌山市)、部埼(北九州市)、釣島(松山市)とほぼ同時期に建てられた。瀬戸内海の御影石を、地元の石工の手で見事に組み上げ、その重厚さはいずれも目を見張らせる。文明開化の波とは無縁だった瀬戸の小島に上陸し、いくつもの灯台をわずか一、二年で建設したのは並大抵の苦労ではなかっただろう。
 戦後の1950年ごろ、灯台見回り船で鍋島を訪れた伊藤武夫さんは、灯台職員とその家族が暮らす吏員退息所に興味を引かれたのか、石造りの西洋館を何枚も写している。
Nabesima
 本船航路の備讃瀬戸の要衝でもある鍋島。与島の沖の小島だったが、堤防で陸続きになった。瀬戸大橋のイルミネーションや橋上を行き交う車、電車の光跡の下でも灯光は力強い。
 91年に無人管理となり、退息所の建物は今春、高松市屋島の民家博物館・四国村に移築復元された。石柱のあるしゃれたポーチを持つ石造りの西洋館はここでも異彩を放ち、存在感がある。
【写真】明治初期に建設された吏員退息所。ポーチを持つ建物は珍しかった(1950年ごろ)
【写真説明】瀬戸大橋を見上げる鍋島灯台

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«■灯台のある風景④ 佐田岬 愛媛県三崎町