2010.01.23

INDEX ※カテゴリーの項目からお入り下さい

Noto_4
【トピックス】
◆松江で島根半島の灯台写真展◆切手の中の灯台◆灯台記念日に灯台研究会表彰◆音戸灯台は灯塔撤去し仮設のあかり◆写真家緑川洋一さんのこと◆癒やしの風景 岬・半島・灯台◆映画「潮騒」にみる灯台長の描かれ方◆海上保安大耐寒訓練 小麗女島灯台~太郎坊◆デパートで訪ねる灯台
【歴史】
◆近代化遺産としての釣島灯台◆新聞記事にみる米・中核実験による灯台職員飲料水汚染(年表)◆江田島屋形石燈標の戦災被害状況記録
【灯光はるか】
◆灯光はるか 灯台長一家の原爆 <1>―<10>
【灯台のある風景】
◆①男木島②大久野島③鍋島④佐田岬⑤大浜埼⑥高根島⑦室津⑧宇品
【紀行】
◆豊後水道・鶴御埼◆豊後水道 海事資料館&渡り鳥館◆石狩&日和山灯台◆原発抜けて立石埼灯台◆はるか潮岬◆室蘭・母恋・地球岬灯台◆「喜びも悲しみも幾歳月」灯台マップ◆「さかい」の港にある 二つの明治木造洋式燈台◆瀬戸内海・明治の灯台を巡る◆四国民家博物館(四国村)と加藤達雄さん◆紀伊日ノ御埼灯台の句碑◆志賀直哉の見た百貫島の灯
【記念灯台を行く】
◆玉島灯台◆明治村の旧小那沙美島灯台◆新居浜港・赤白灯台◆旧福浦灯台
【記録】
◆大久野島灯台に関する聞き書き◆灯台の雨水利用システム◆灯台 海の灯絶やさぬ 守りの人の誇り◆遙邨の描いた灯台
【資料】
◆灯台史の空白に光り 戦中戦後の灯台記録写真見つかる 長野で◆伊藤武夫写真資料の持つ意味◆伊藤武夫灯台資料について◆伊藤武夫灯台資料を燈光会に寄贈

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2007.06.15

玉島灯台

 倉敷市玉島は古い蔵の並ぶ港町である。倉敷の美観地区はすっかり観光地としてにぎわっているが、江戸時代から米や醤油、肥料などの物資を積み下ろしした風情を伝えるのは玉島の旧港界隈ではないだろうか。
 倉敷市は旧玉島と児島、水島とが合併してできた都市だがそれぞれの町の個性があって、とらえどころのない市でもある。蔵が並び、美術館がある美観地区一帯のイメージでとらえると、とまどうことが多い。下津井あたりは瀬戸大橋が頭上を走る漁師町だし、水島、玉島は石油、自動車、製鉄を中心にした一大コンビナートである。小学校の社会科で学んだのは日本の四大工業地帯、つまり京浜、中京、阪神、北九州についで勢いのあったのが、ここ倉敷の水島コンビナートだった。コンビナートが発展のあかしであり、重厚長大の工場群が誇りであった時代である。
 高梁川西岸の玉島の町は、旧商港であり、クリークの走る米を中心にした農業地帯だったが、対岸の水島から伸展したコンビナートに飲み込まれるように町の様相を変えてきた。
旧港につながる入り江の奥まったあたりを散策すると、玉島の街のよさがわかる。狭い路地、大きな土蔵のある商家、明治、大正のたたずまいの銀行や銭湯がいまも残る。
入り江の両岸は、現在はヨットなどのレジャーボートが係留されているが、街並みは旧港時代そのままというアンバランスなところが面白い。水辺の公園にかつての「玉島灯台」の灯器部分がモニュメントとして、きちんと展示保存されていた。石碑に刻まれたその歴史を書きとどめておく。
≪玉島灯台の歴史≫
このモニュメントは、玉島柏島の八幡山に設置されていた「玉島灯台」の上層部をそのまま移設保存したものです。八幡山には、江戸時代に船用の灯明台がつくられ、明治16年に最初の灯台として「八幡灯台」が設置され、その後を引き継いで昭和26年に「玉島灯台」が建設されました。以来42年間にわたって、玉島港へ出入りする船はもとより、水島灘を航行する船の道しるべとして重要な役割を果たしてきました。
しかし、玉島E地区の埋め立てが進み、灯台の役割が十分果たせなくなったため、平成5年2月、約2.8Km沖合に「水島港玉島防波堤灯台」が新たに建設され、「玉島灯台」はそのつとめを終えました。
私たちは、海上交通の安全のため、灯台の果たす役割やそれを支える海上保安庁の任務の大切さを再認識するとともに、通称「八幡灯台」として、市民の皆さんに長い間親しまれてきた「玉島灯台」を港町玉島のシンボルとして末永く保存するものです。
≪玉島灯台の概要≫
設置年月 昭和26年6月  光達距離 16海里(約30㎞)   燈質  閃白光毎5秒1閃光   
地上からの高さ  11.8M  光源   100ボルト、500ワット  平均海面からの高さ  31M 
光度   25万カンデラ     廃止年月 平成5年2月                                                              岡山県    倉敷市

 公園にあるモニュメントは灯台のほんの一部、灯器部分だけである。銘文にある柏島の八幡山を訪ねた。公園から車で7,8分。公園から見れば入り江をはさんで南方の小高い丘の上である。そこには八幡山の名の通り八幡神社があった。灯台の基礎部分はここにそのままの形で残されていた。
 丘から玉島港の入り口、そして水島灘をみはるかすには木立が覆い茂ってはいたが、それがなければなるほど入船にとっては格好の道しるべの位置であったに違いない。東側の玉島乙島の住友重機や中電発電所、さらに高梁川の対岸の水島の大コンビナートの埋め立て前なら、備讃瀬戸を抜けて玉島を目指す船には重要な灯りであったことは想像がつく。

6管資料の「瀬戸内海燈台百年・年表」の昭和26年6月の記述も拾っておく。
≪玉島灯台を設置≫昭和26/6/8
管内で初めてLB型灯器を使用した。LB型灯器は従来の大型灯台の灯器に比べ軽量小型でかつ高性能であるため、以後の大型灯台に多く採用され光度の増大のみならず灯塔の構造に対しても大きな影響を与えた。
 丘を車で下り県道との交差点に、小さな灯台のモニュメントがあるのに気づいた。高さ3Mばかりのコンクリート製。基礎部分に「八幡灯台保勝会」とある。明治16年の最初の「八幡灯台」とも思えない。昭和26年、玉島灯台設置までの八幡灯台とも考えられなくもないが、説明板らしいものもなく、確認のしようがなかった。県道沿いにはどこからか移築してきたものであろう。さきの6管資料の年表の昭和26年6月10日の項に「玉島港八幡灯柱を玉島町より移管さる」とある。港入り口にあった灯柱が、沖合の埋め立てや防波堤建設で役目を終えたものだろうか。
①公園に設置された玉島灯台の灯器部分

②八幡山の八幡神社そばの玉島灯台。上部は取り外された

③県道沿いにある八幡灯台。「八幡灯台保勝会」とある

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2007.02.23

大久野島灯台に関する聞き書き

      
中山加代子さん=1915(大正4)年生まれ=

 父は倉田伊代吉といいます。昭和12年、勝浦で退官しました。大久野島の前は伊江島、その前は沖縄で、伊江島の時、小学校1年でした。尋常小学校5年の時、忠海に来ました。島に官舎があったのですが、最初は本土側の忠海に家を借りていました。兵器製造所が出来るというころでした。小学校、忠海高女に通いましたが、途中から島の灯台のそばにある官舎に住みました。
 本土から兵器製造所にたくさんの工員さんが船で通って来られました。灯台の船もあったのですが特別、便宜を図ってもらったのでしょうか。製造所の船によく乗せてもらいました。船は兵器製造所の桟橋を使っていました。
製造所のことは秘密の兵器、戦争で使う日本で初めての兵器と聞いていたが、毒ガスというのは知りませんでした。事務所が真ん中にあり、灯台との敷地とは鉄条網で仕切られました。島は製造所が出来てすっかり変わりました。山にウサギがいて、山ツツジがいっぱい咲いたのどかな島でした。海でタコをわしづかみにして捕った思い出もあります。昭和8年に忠海高女を卒業しました。私自身は忠海に10年間いました。
 灯台の暮らしはここはのどかでした。父が灯台長で、部下と2世帯が官舎に住んでいました。小使い(用弁)さんがいて、風呂を沸かすなどの雑用をしてくれました。
 灯台の灯を守る仕事の他に気象月報、潮流、いくつかの浮標の保守点検もあったようです。
敷地内に井戸がありました。どの灯台でもそうでしたが、ここにも天水を溜めるコンクリート製のタンクがあり、モダンな大きな形でした。生水は一切飲まず、ここで蒸留、精製したものを飲んでいました。(東京在住、98年7月聞き書き)


 村上初一さん=1925(大正14)年生まれ=元毒ガス資料館長
 有刺鉄線で灯台用地と毒ガス製造所は分けていた。灯台用地はきちんと、分けられ灯台のすぐ下に独自の係船場があった。島の南端の一角、つまり灯台部分は愛媛県という誤った説があった。灯台は大三島側の宮浦で管理したんじゃあなかったか。それでそんな説になったかもしれん。
 「陸軍所轄地」という石柱があるはず。「所轄地」との表記は明治中期(※灯台は明治27年初点)。「陸軍用地」は大正、後に「陸軍省」となるはず。
 昭和19年ごろ、灯台の官舎にもよく行った。木造平屋で部屋はいくつもあり、伝声管があった。忠海高女に通う娘さんがいて、製造所の技師が乗る通船に特別に乗っていた。私が昭和15年4月に高小(いまの中2)出たころの話だ。
 大久野島沖は水深65Mあり、巡洋艦も頻繁に通る重要航路。灯台も重要灯台のひとつだったのだろう。
(竹原市在住、93年12月聞き書き)=畑矢健治

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2007.02.20

灯台文献リスト■1

▼〈燈臺〉石川源二著・大正3年刊
 日本は開国の明治初年以来、半世紀で光学土木、建築学、音響学など諸学にわたる西洋灯台技術を学び修得した。わずか半世紀で得た灯台学の知識は、わが国近代化と歩みを同じくする。この著作はその集大成でもあった。
①航路標識②霧信号③航路標識の設計―からなる635頁は精致な技術書である。
 口絵写真の「大浜﨑潮流通航信号所」(因島)の威容は現在の様子からは想像出来ない。巻末の各国灯台事業概要も重要な記述である。=1997末広島本通古書アカデミイにて¥5000で購入=

日本の名著「岬」(森田敏隆・光村推古書院)2000年
 この写真家はきっと灯台のある風景をこよなく愛しているのに違いない。森田敏隆さんは「瀬戸内」や「国立公園」などの風景の写真家として著名。この「岬」の一枚一枚には写真家が風景と真摯に向き合う姿がにじみ出ている。「人生の岐路に立ったとき、私は岬に足を運ぶ」という氏が、30年間かけて四季の岬を撮った労作である。沖縄から九州へと北上し北海道・宗谷岬で締めくくる。叶埼、妙見埼、沢崎鼻、黒崎、竜飛埼、霧多布など地味ながら灯台研究には必見の場所があるのがうれしい。 (1600円)

▼明治期の灯台に魅せられて(鈴木博私家版・1998)
▼伊王島歴史散歩(長崎県伊王島教委・1994)
▼R・H・ブラントン 日本の灯台と横浜のまちづくりの父  (横浜開港資料館・1994)
▼博物館明治村ガイドブック(博物館明治村・1993)
▼せとうち風光・特集「燈台」(瀬戸内風光研究会・1998)
▼灯台の潮風だより(千趣会・1998)
▼港町に魅せられて(千趣会・1998)
▼業務統計資料集〈平成10年版〉(6管・1998)
▼政府広報「時の動き」特集海を守る(総理府・1998)
▼北海道神威燈台絵葉書(外山商店発行13枚組・戦前)
▼岡山文庫14 瀬戸内海(日本文教出版・1967)
▼美保関灯台百周年記念絵葉書「扉を開けば大正ロマン」(記念事業実行委員会6枚組・1998)

▼広島周辺の海釣り(中国新聞社)
▼山口の海釣りー瀬戸内から日本海まで(同)
▼山口の海釣りー日本海編―(同)
【日本の釣りシリーズ】の副題のある航空写真で釣りのベストポイントを紹介するガイド本は灯台散策に実に役に立つ。全国の地方新聞社が発行しており、灯台を訪ねる前か後に、この本でたどった道のりを確認するのに便利である。初めて訪ねる灯台への道は地図に記載されている通りでないことが多い。島の道は特に、灯台の管理が無人となり定期的に訪ねるとはいえ、夏草が覆っていたり、道が荒れていることがしばしばある。島の段々畑も年寄りばかりで手が入らず、灯台への道が閉ざされていることが幾たびもあった。今、島の端っこまで道をかき分けて入るのは、灯台巡りか、釣り人である。山口県須佐町の高山岬灯台、淡路島南淡町の沼島灯台は釣り人と途中まで一緒だった。防府市沖の野島灯台は、道が夏草に覆われ、何度も行方を遮られ辿り着くのに2時間近くかかった。そんな苦労を、空から眺めながら回想するのにちょうどいい本である。

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灯台文献リスト■2

嵐の中の灯台―親子三代で読める感動の物語 (明成社・2001年)
  明治後期から終戦直後までの修身・国語教科書に収められたの物語を読みやすく現代風にリメイクした。表題の「嵐の中の…」は、坪内雄蔵著「国語読本 高等小学校用巻二」(明治33年・5年生用)「第4・5課 燈台(上・下)」が原典。舞台は北米の離れ小島。灯台守の父親が油や食料の調達に向こう岸の港町に出かけた。天候が急変し、大嵐に。島に残した8歳の一人娘が小船で帰る父と灯台の明かりを頼りにする船乗りのために必死で明かりをともす。児童向けの掌編読み物。このほか豊田佐吉の自動織機、青の洞門、通潤橋など。 1200円
                                
三井グラフ 124 (三井物産広報委員会・2001/7)
   特集・にっぽん岬めぐり/いつか訪ねたいユニークな岬たち。
   表紙は宮古島・東平安名崎 

▼明治期の灯台に魅せられて(鈴木博私家版・1998)
▼伊王島歴史散歩(長崎県伊王島教委・1994)
▼R・H・ブラントン 日本の灯台と横浜のまちづくりの父(横浜開港資料館・1994)
▼博物館明治村ガイドブック(博物館明治村・1993)
▼せとうち風光・特集「燈台」(瀬戸内風光研究会・1998)
▼灯台の潮風だより(千趣会・1998)
▼港町に魅せられて(千趣会・1998)
▼業務統計資料集〈平成10年版〉(6管・1998)
▼政府広報「時の動き」特集海を守る(総理府・1998)
▼北海道神威燈台絵葉書(外山商店発行13枚組・戦前)
▼岡山文庫14 瀬戸内海(日本文教出版・1967)
▼美保関灯台百周年記念絵葉書「扉を開けば大正ロマン」(記念事業実行委員会6枚組・1998)
             

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2007.02.11

近代化遺産としての釣島灯台

 松山沖約8キロに浮かぶ釣島。桟橋から灯台まではミカン畑の中の山道をとぼとぼと登る。時折振り返ると、釣島水道を行き交う大型船が見える。瀬戸内海とはいえ、ここからのパノラマは大型スクリーンに映し出された大海原である。視界から船影が消えるまでの時間がとても長い。 この場所に灯台を設置した英国人R・H・ブラントンの目の確かさを感じる。
      ■      ■      ■
 釣島灯台の旧官舎の復元工事がこの夏、完了したので見学に行った。荒れ果て崩壊寸前だった明治の西洋館は見事によみがえっていた。幕末から明治にかけわが国が近代化に向け、西洋の技術を導入し建設した近代化遺産が次々と壊される中で、この西洋館復元の意味は大きい。
 釣島灯台の初点は明治6(1873)年。建設工事に着手したのは明治4年のことである。明治維新直後、お雇い外国人として明治政府に招聘されたブラントンの仕事である。
 ブラントンは明治元年に来日、9年に帰国するまでの間に、日本の沿岸に26基の灯台と2基の灯船を手がけた。わが国の「灯台の父」といわれるゆえんだが、瀬戸内海の灯台だけを列挙しても次の通りである。 江崎(淡路島)、和田岬(神戸)、天保山(大阪)、六連島(下関)、部埼(門司)、友ケ島(和歌山)、鍋島(備讃)、釣島。
 維新後、文明開化の波が寄せているとは思えぬ瀬戸の小島にやって来た外国人に島民が驚いたのは想像に難くない。外国人が手がけた灯台の地で、明治の初年に地元民がどう対処したかが文書で残されている例は極めて少ない。釣島の場合、現在も看守補助員を務める小林元翁さん宅が代々灯台の仕事にかかわっていることから、さまざまな言い伝えが残る。
 英国人の灯台技師は建設着手以来、点灯後の明治9年四月ごろまで数人が居住し、日本人の灯明番の指導に当たっていた。 小林氏の先祖鉄造氏と英国人技師らの関係は極めて良好だったようだが、食材はすべて神戸、三津浜経由で島に運ばれ、日本食は果物以外、口にしなかったという。
      ■      ■      ■
 旧官舎の復元は文明開化時のわが国に「西洋」が移入された様子を如実に示した。
 昭和38年に無人化され、荒れ放題だった官舎は平成7年に松山市の文化財となった。修復工事の過程で壁紙をはがしていたら、下張りに使われていたのが日誌、備品台帳、気象記録などだった。
 備品台帳には、灯台本体の反射鏡やレンズ、石油ランプなど灯台業務に関するものから、調度品、台所用品までが事細かに数とともに記載されていた。
 台所用品の備品には「野菜皿」「牛酪皿」「羮皿」「バタ入鉢」「砂糖匙」「鶏卵台」など日本語に訳されてはいるが、ありとあらゆる西洋料理のテーブルが想像される。
 4つの部屋には、英国から持ち込んだマントルピースが備えられた。扉や窓枠、羽目板には「木目塗り」というヨーロッパ独特の装飾塗装が施されている。
 釣島という小島での「西洋」は灯台用地の中で培養された。英国人技師の時代、英国人と日本人の見習いの同居時代、日本人だけになった時代―と変遷する。
 ブラントンは全国に灯台を建設後、各地をテーボル号、明治丸で巡回する。明治7、8年の英国への報告文は興味深い。釣島の生活、居住部分について厳しく指摘する。
 「・・・住居部分の使い方は全くひどい有り様であった。各自に部屋を与え、家具も割り当てた」(1874.10.6=明治7)、「・・・住宅はかなりだらしのない状態であった。ここにおける部屋の使い分けはまともでなく、各部屋を最適な用途に使うことは困難である。以前の訪問の際、灯台守たちに家具の配置について指図したのだが、その命令は実行されないままでいた。そして両住宅、台所、便所は不潔で汚く、手入れが不十分である」(1875・8・3=明治8)とつづった。
 それは英国人と見習い日本人がいた時代と思われる。おそらく2,3人いたであろう教師役の灯台技師が異国の果ての小島でどういう暮らしをしたのか。技術を学び取ろうとした日本人灯明番とどうかかわったのだろうか。今後の興味深いテーマである。
 解読されたさまざまな下張り文書、洋館に日本人が次々と手を加えて行った過程などから見えてくるものがある。明治以降、日本が「西洋」をどう取り入れていったかを探る格好の歴史文化遺産といえる。(980225=畑矢健治)

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2007.01.14

松江で島根半島の灯台写真展

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 明治時代に建てられた日本を代表する島根半島の二つの灯台の歴史を紹介する写真展「出雲日御碕と美保関灯台」が松江市朝日町の広島銀行松江支店ロビーで開かれる。灯台研究会主催。2月1日から28日まで。
 両灯台は、日本海を航行する船舶の道しるべとして重要な役割を果たしてきた。写真の多くは、昭和18年まで数年間、出雲日御碕灯台に勤務した伊藤武夫さん(故人)が撮影。日本一の高さを誇る灯塔の白ペンキ塗りやレンズ磨き作業、灯台守と地元の人々の交流、漁業や祭りなど日御碕の人々の暮らしぶりにもカメラを向けている。また戦後、海上保安部の工務課長時代に訪れた戦後まもない美保関灯台の写真もある。
S26
 展示される30枚は、美しい明治の石造建築の姿と灯台守の仕事や暮らしぶりを伝える貴重な資料ばかりである。
【写真】灯台の塗装作業(昭和18年ごろ)【写真】ウミネコと出雲日御碕灯台(昭和26年)
■第8管区海上保安本部境海上保安部のHPhttp://www.kaiho.mlit.go.jp/08kanku/sakai/index.htmlに写真展と出雲日御碕灯台の詳細が紹介されました■

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2007.01.13

切手の中の灯台

 小学生のころ、ブームで切手を集めていた。家族あてに来る封筒やはがき、小包の切手を切り取り、洗面器に張った水できれいにはがした。国立、国定公園や日本三景などの観光地の切手が多かったような気がする。切手帳という保存ノートがあり、その中にジャンル別に並べた。ジャンル別というのは、通常切手や国体、観光地、記念日もの、浮世絵などがあった。なかでも観光地ものに力が入っており、北海道から九州までを地域別に分け、並べていた。
 切手の絵の記憶は確かなもので、野島埼灯台と海女をデザインした「南房総国定公園」(1961)、「足摺岬」(1960)、断崖の上の大瀬崎灯台を描いた「西海国立公園」(1956)は、コレクションしており地図でその場所を確認した。
 切手ブームは一瞬のうちにして去り、大切にしていた切手帳も書棚の端でほこりをかぶったままとなり、そのうちどこかに消えた。当時、マッチ箱に描かれた東海道53次の宿場ごとの広重絵も集めていた。父親の吸う煙草とともにマッチ箱があったのだが、これも30宿ほどをきちんとノートに貼り付けていた。浜松、見附、桑名、掛川…いまもあればなかなかのコレクションだが惜しいことに、これまたどこかに行った。
                                      
 備讃瀬戸海上交通センターの水澤正彦さんから、珍しい切手を灯台研究会にいただいた。
 1968(昭和48)年11月1日の「灯台百年記念郵便切手」。久里浜のスタンプが押印された台紙付きである。水澤さんによると、当時はまだ小学生で、海上保安庁に入って初任地の沖縄で先輩から入手したもので、燈光会が当時の灯台職員に配布したものらしい、とのこと。灯台研究会の資料に加えさせていただきました。(010630)

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2007.01.11

伊藤武夫元六管課長が撮影 灯台史の空白に明かり 戦中・戦後の写真発見

 戦中、戦後にかけて各地の灯台に勤務した伊藤武夫さん(七三年、六十九歳で死去)。戦時中から1948(昭和23)年に海上保安庁が発足した直後までの、全国の灯台の写真百数十枚が長野県上田市で見つかった。灯台と官舎、灯台守の仕事やその家族の暮らしぶりなどを丹念に記録している。発足五十年を迎えた海上保安庁にも、こうした写真は少なく灯台史の空白を埋める貴重な資料である。
 撮影していたのは戦時中、広島県大竹市沖の阿多田島の灯台長だった伊藤武夫さん。塩屋埼(福島県)、石廊埼(静岡県)、沢埼(新潟県)、出雲日御碕(島根県)から阿多田島へと全国各地の灯台に勤務した。阿多田の灯台長時代には、広島に外出していた妻子四人を原爆で亡くした。保安庁発足後は広島の第六管区海上保安本部の工務課長を務め、戦争で大きな被害にあった管内の灯台などの復旧に尽力した。
 若いころから写真が趣味で、勤務地では職務の様子を撮影したほか、地元の人々の暮らしぶりにもカメラを向けた。退職後は郷里の上田市で写真店を営んだ。赴任する先々で撮り続けた膨大な写真のネガやプリントを残した。アルバムやネガのまま箱詰めしていたのを再婚した妻ミサヲさん(85)が大切に保管していた。
 灯台職員にとって数年に一度の大仕事だった灯台の白ペンキ塗り、日常の業務だったレンズ磨き、気象データの計測などの作業風景と霧信号の発生装置、潮流信号機などの機械類の写真は、当時の灯台保守の業務を知る手掛かりとなる。灯台が無人管理になる1960年代まで敷地内にあった明治時代の石造りの西洋館の宿舎の姿も多くとどめている。
 戦時下、米軍機による機銃掃射で、レンズや光源が大破した広島湾の安芸白石灯台や爆撃の目標にならないよう黒く擬装した佐田岬灯台などの写真は貴重だ。戦後まもなく瀬戸内海の機雷の掃海作業が行われ、掃海水路に浮標を設置するのも重要な仕事でそれに関する記録写真も数多い。
 灯台業務の重要さを普及、啓蒙し、資料の収集をする社団法人燈光会(東京)の吉田武治常務理事は「戦時中と戦後の灯台とその業務を記録した貴重な資料ばかり。離島や岬の辺鄙な場所で航路の灯を守った苦労が一枚一枚から読み取れる。灯台の歴史と灯台守の仕事を後世に伝えるのに役立つ1級の資料だ」と話している。 (980720)

【写真】日本一高い島根県の出雲日御碕灯台のペンキ塗り作業。鉄製のつり枠に乗り、地上からロープを操作し移動させた(1942年ごろ)
【写真】レンズを磨く灯台職員。日々欠かせぬ作業だった=出雲日御碕灯台(1942年ごろ)

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2007.01.09

音戸灯台は灯塔撤去し仮設のあかり

芸予地震 航路標識33カ所被害 広島・愛媛・香川
 2001年3月24日芸予地方を襲った震度5強の地震で、広島湾を中心にした灯台など33カ所の航路標識に被害が出た。第6管区海上保安本部灯台部がまとめた。
被害が大きかったのは震源地となった安芸灘付近や瀬戸内しまなみ海道沿線の島嶼部が中心。広島18カ所、愛媛13カ所、香川2カ所となっている。
   ◇    ◇
Ondotoukai_1
 被害が最もひどかった音戸灯台を訪ねた。音戸瀬戸の呉港への導入部、音戸町坪井の崖の上38Mの位置に白タイル塔形(高さ9・5M)として立っていた灯台は、ひびが入り倒壊の恐れがあるとして急きょ撤去が決まり、仮設の灯火が点されていた。
 地震直後の被害状況は、直径約2Mの円筒形の灯塔の地上から3Mの周囲に亀裂が入った。地震直後に灯台に上がったのは、直下に住む平清一さん。大きな亀裂が入っていたため、余震があっては家を直撃する恐れがあるため、6管に通報したが電話がなかなかつながらず、あわてたという。
   ◇    ◇
 灯台は1959(昭和34)年3月初点、93(平成5)年3月に改築した。改築の際、灯台の周囲の土地を平さんが60坪ほど海上保安庁に売却。法面をコンクリートで固めたうえ、地盤もコンクリートを張り、かさ上げ、鉄製部分をステンレスにするなど大改修を施したばかりだった。
 地震翌日には撤去の方針が決まり26日には、削岩機などを使い円筒部を外し、青色のビニールシートで覆った。灯火は鉄骨で組んだ足場の最上部に設置された。
 「Iso w 6s 等明暗白光 明3秒暗3秒」のこれまで通りの光を発している。
 
 点灯する夕刻6時半ごろに平さんの庭先から急坂を灯台まで登った。直下に音戸瀬戸から出入りする松山航路のスーパージェットやフェリー、貨物船が行き交う。
 瀬戸の渦潮と同様に強い風が巻くように吹き上げて来る。遠くに小麗女、屋形石、宇品の灯が続くはずだが、小麗女の灯だけが見えた。
 建築現場の足場の上に仮設の灯が点るが、灯塔復旧の目途はいまのところ立っていない。
     ◇   ◇
 そのほかの被害は、広島港西防波堤灯台の灯火部分のプラスチックフィルターの落下、安芸白石灯標、屋形石灯標のレンズのひび割れなど。(010401)
音戸灯台は強化プラスチック製灯台として02年3月20日、復旧した。
【写真】鉄パイプの足場の上で、航行する船舶を見守る音戸灯台の「仮設灯」

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