倉敷市玉島は古い蔵の並ぶ港町である。倉敷の美観地区はすっかり観光地としてにぎわっているが、江戸時代から米や醤油、肥料などの物資を積み下ろしした風情を伝えるのは玉島の旧港界隈ではないだろうか。
倉敷市は旧玉島と児島、水島とが合併してできた都市だがそれぞれの町の個性があって、とらえどころのない市でもある。蔵が並び、美術館がある美観地区一帯のイメージでとらえると、とまどうことが多い。下津井あたりは瀬戸大橋が頭上を走る漁師町だし、水島、玉島は石油、自動車、製鉄を中心にした一大コンビナートである。小学校の社会科で学んだのは日本の四大工業地帯、つまり京浜、中京、阪神、北九州についで勢いのあったのが、ここ倉敷の水島コンビナートだった。コンビナートが発展のあかしであり、重厚長大の工場群が誇りであった時代である。
高梁川西岸の玉島の町は、旧商港であり、クリークの走る米を中心にした農業地帯だったが、対岸の水島から伸展したコンビナートに飲み込まれるように町の様相を変えてきた。
旧港につながる入り江の奥まったあたりを散策すると、玉島の街のよさがわかる。狭い路地、大きな土蔵のある商家、明治、大正のたたずまいの銀行や銭湯がいまも残る。
入り江の両岸は、現在はヨットなどのレジャーボートが係留されているが、街並みは旧港時代そのままというアンバランスなところが面白い。水辺の公園にかつての「玉島灯台」の灯器部分がモニュメントとして、きちんと展示保存されていた。石碑に刻まれたその歴史を書きとどめておく。
≪玉島灯台の歴史≫
このモニュメントは、玉島柏島の八幡山に設置されていた「玉島灯台」の上層部をそのまま移設保存したものです。八幡山には、江戸時代に船用の灯明台がつくられ、明治16年に最初の灯台として「八幡灯台」が設置され、その後を引き継いで昭和26年に「玉島灯台」が建設されました。以来42年間にわたって、玉島港へ出入りする船はもとより、水島灘を航行する船の道しるべとして重要な役割を果たしてきました。
しかし、玉島E地区の埋め立てが進み、灯台の役割が十分果たせなくなったため、平成5年2月、約2.8Km沖合に「水島港玉島防波堤灯台」が新たに建設され、「玉島灯台」はそのつとめを終えました。
私たちは、海上交通の安全のため、灯台の果たす役割やそれを支える海上保安庁の任務の大切さを再認識するとともに、通称「八幡灯台」として、市民の皆さんに長い間親しまれてきた「玉島灯台」を港町玉島のシンボルとして末永く保存するものです。
≪玉島灯台の概要≫
設置年月 昭和26年6月 光達距離 16海里(約30㎞) 燈質 閃白光毎5秒1閃光
地上からの高さ 11.8M 光源 100ボルト、500ワット 平均海面からの高さ 31M
光度 25万カンデラ 廃止年月 平成5年2月 岡山県 倉敷市
公園にあるモニュメントは灯台のほんの一部、灯器部分だけである。銘文にある柏島の八幡山を訪ねた。公園から車で7,8分。公園から見れば入り江をはさんで南方の小高い丘の上である。そこには八幡山の名の通り八幡神社があった。灯台の基礎部分はここにそのままの形で残されていた。
丘から玉島港の入り口、そして水島灘をみはるかすには木立が覆い茂ってはいたが、それがなければなるほど入船にとっては格好の道しるべの位置であったに違いない。東側の玉島乙島の住友重機や中電発電所、さらに高梁川の対岸の水島の大コンビナートの埋め立て前なら、備讃瀬戸を抜けて玉島を目指す船には重要な灯りであったことは想像がつく。
6管資料の「瀬戸内海燈台百年・年表」の昭和26年6月の記述も拾っておく。
≪玉島灯台を設置≫昭和26/6/8
管内で初めてLB型灯器を使用した。LB型灯器は従来の大型灯台の灯器に比べ軽量小型でかつ高性能であるため、以後の大型灯台に多く採用され光度の増大のみならず灯塔の構造に対しても大きな影響を与えた。
丘を車で下り県道との交差点に、小さな灯台のモニュメントがあるのに気づいた。高さ3Mばかりのコンクリート製。基礎部分に「八幡灯台保勝会」とある。明治16年の最初の「八幡灯台」とも思えない。昭和26年、玉島灯台設置までの八幡灯台とも考えられなくもないが、説明板らしいものもなく、確認のしようがなかった。県道沿いにはどこからか移築してきたものであろう。さきの6管資料の年表の昭和26年6月10日の項に「玉島港八幡灯柱を玉島町より移管さる」とある。港入り口にあった灯柱が、沖合の埋め立てや防波堤建設で役目を終えたものだろうか。
①公園に設置された玉島灯台の灯器部分
②八幡山の八幡神社そばの玉島灯台。上部は取り外された
③県道沿いにある八幡灯台。「八幡灯台保勝会」とある
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